タームシートとは?
契約の大まかな枠組みを項目別にまとめた表をいう。契約対象、契約方式、契約期間などが簡潔に記述されており、契約交渉にあたっての資料として利用されることが多い。特に、ライセンス契約などにおいてよく用いられる用語である。 不動産の証券化などにあたっては、個別の案件ごとに、資産の概要、証券化等の仕組み、発行証券の内容、関係者(オリジネーター、SPC等の組成責任者、資産の管理運営者等)などをまとめて記載した条件書が作成されるが、それもタームシートである。 不動産投資)、長州藩士品川弥二郎に新選組の村岡伊助を討つよう依頼され、同十津川郷士の前岡力雄と共にこれを討ち、功績が称えられ、長州藩から長刀が贈呈された。 同年に京の寺田屋で坂本龍馬と時勢を論じ合った。ここで中井はまだ20歳であった自分と対等に話をしてくれた龍馬に感激した(当時龍馬は30歳)。このことで中井は周囲の人々に「かれの為ならいつでも死ねる。」と語っていたという。 慶応3年(1867年)1月7日、京で那須の護衛を務めているとき、二人とも泥酔状態で四条大橋で新選組のこちらも泥酔状態だった沖田総司、永倉新八、斉藤一の三人に遭遇。斬り合いになるが、那須は軽症を負うものの、中井は間一髪の所で無事だった。 ワラント、京の近江屋で龍馬が何者かによって暗殺される(近江屋事件)。それを知った海援隊残党の陸奥陽之助(のち宗光)らはこの事件は同年起きた伊呂波丸事件で龍馬に多額の賠償金を支払うことになった紀州藩公用人の三浦休太郎の恨みによる犯行だとして、海援隊・陸援隊の志願者と共に三浦を討つことを決めた。中井は龍馬に親交があった為、この討ち入りに参加した。一方、三浦は身の危険を察し、会津藩を経由して新選組に警護を依頼していた。 同年12月7日、三浦及び新選組の護衛隊数人は、油小路通花屋町下ルの旅宿天満屋に止宿して、宴会を行っているところを陸奥らが討ち入りした。一番に乗り込んだのは中井で、部屋に入るなり三浦に「三浦氏は其許か」と言うなり斬りつけた。それから陸奥が率いる海援隊・陸援隊の者が突撃し、新選組と斬り合いになった(天満屋事件)。中井は奮闘したが新選組隊士に斬りつけられ討ち死にした。享年21。 くりっく365に中井庄五郎殉難の碑(京都市下京区油小路)が立てられた。贈従五位。墓は東山霊山墓地にある。 本間 精一郎(ほんま せいいちろう、天保5年(1834年) - 文久2年閏8月20日(1862年10月13日))は、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。早くから江戸や京で学び、尊皇攘夷の思想に目覚める。彼の一族は、日本海側の人々の中でも裕福な家系で、佐渡奉行や大商人とつながっている。 会津小鉄(あいづのこてつ、本名:上坂 仙吉(こうさか せんきち)、1833年7月7日(天保4年5月20日) - 1885年(明治18年)8月19日)は、京都の侠客。 生地は後の大阪市南区本町2丁目、本籍は京都府愛宕郡吉田村第140号。行友李風の『近世遊侠録』によると背中の文身は小町桜(小野小町が桜の下にいるとされる)。全身に数十にわたる刃傷があり1853年に右の小指を、1865年に左の指を3本(親指と人差し指を残して)斬られているが、己自身も少なくとも5人は手に掛けている。 外為より恋人と生活していたが、縄張り争いで亡くしている。1865年(慶応元年)より暮らしていた芸者(?〜1868年?)との間に2子を儲ける。1人は子分の養子に、1人は九州の親分の養子にする。1872年(明治5年)に妻(1851年?〜1919年)を迎え1子を儲ける。この子は21歳で家出をして行方不明。 玉松 真広(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) - 明治5年2月15日(1872年3月23日))は幕末期の国学者。岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名。通称は操。雅号は毅軒。 阿野家の分家である山本家の山本公弘の二男(西園寺家末流)として生まれ、醍醐無量寿院において出家得度し、法名を猶海とした。大僧都法印に任ぜられたが、寺中の綱紀粛清をつよく唱えたために反感を買い、1839年還俗。山本毅軒と号し、さらに玉松操と改めた。 外為で国学者大国隆正に師事したが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江国真野に隠棲。三上兵部、樹下茂国らを弟子とした。1867年、三上の紹介によって岩倉具視に会い、その腹心となる。以後、幕末維新期の岩倉と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。 ことに有名なのは小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことであろう。さらに玉松は、早晩幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための錦旗のデザインを考案するなど、その功績小ならざるものがあった。 王政復古の後は、内国事務局権判事となり、平田銕胤らと結んで大学寮(漢学所)を国学を中心とする大学官に併合することを求めるなど、きわめて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1869年には堂上家の一員となり、家禄三十石三人扶持が給付される。東京奠都にあたっては猶予願を出し、1870年に東京で大学中博士兼侍読に任ぜられたものの、政府の欧化政策を嫌悪し、同年10月に辞職。京都に帰って隠棲したが、まもなく病没した。1884年7月、嗣子玉松真幸が男爵に叙された。 司馬遼太郎『加茂の水』の主人公として有名。 伴林光平(ともばやしみつひら、ばんばやしみつひら:文化10年(1813年) - 文久4年2月16日(1864年3月23日))とは、幕末の国学者、歌人、勤王志士。幼名は信丸、後に左京。通称、六郎。一時、並木春蔵の変名を使用。法名は大雲坊周永。号は破草鞋道人、八丘、斑鳩隠士、蒿斎、岡陵など。伴林の名は、生家近くの伴林氏神社(祭神:高御産巣日神、天押日命、道臣命。大伴氏の祖神を祀る)にちなむ。 河内国志紀郡林村(現:藤井寺市林)浄土真宗尊光寺に父 賢静・母 原田氏の次男として生まれ、西本願寺の学寮(後に同学寮因明学教授)、薬師寺、大和郡山の光慶寺 等で仏道修行、各地で仏道・朱子学・国学・和歌を学ぶ(父は出生前に他界、母も六歳の時に亡くなった)。 1833年(天保4年)頃 - 元水戸藩士と、大阪 島之内に店を構える太物商の娘の間に私生児として生まれる。 1835年(天保6年)頃 - 父が水戸に帰参。母は仙吉を連れて水戸へ向かうが行方不明になる。 1845年(弘化2年)頃 - 福知山に預けられる。この時期、剣術を学ぶ。 1849年(嘉永2年)頃 - 人を殺し無罪となったが堅気の生活を捨てる。 1851年(嘉永4年)頃 - 京都の会津藩中間部屋に入る。 1853年(嘉永6年)頃 - 縄張り争いを起こし喧嘩となる。 1856年(嘉永9年)頃 - 江戸会津藩中間部屋の世話となる。後、二条新地大文字町に一家を構えた。 1863年(文久2年)12月 - 会津藩兵が入京。会津藩中間部屋頭の片腕として迎える。 1864年(元治元年) - 池田屋事件、禁門の変に協力するが討幕派に狙われる。 1865年(慶応元年)9月 - 木屋町のお茶屋で会津藩の人間と談合中に襲われる。 1867年(慶応3年) - 浪人を殺し入牢するが会津藩が助命する。 1868年(慶応4年) - 鳥羽伏見の戦いには子分500人を動員し軍夫としたが大坂へ敗走。放置されている会津藩の戦死者の遺体を葬る。この後、遺品を携え官軍のいる会津若松に潜入して目的を達する。 1883年(明治16年) - 賭博により逮捕、裁判で禁錮10月の刑を宣告され入獄。翌年、出獄。 1884年(明治17年) - 出獄すると7000人が白川村の自宅に祝いに訪れたとされる。 1885年(明治18年) - 下京区の病院で3月19日に歿す。21日に本葬、大阪北区消防頭取の小林佐兵衛をはじめ1万3000余人の会葬者が集まる。墓は洛東の金戒光明寺にある。 本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は、論争に強かったため、薩摩や土佐の学問のない貧しい出の浪士たちや、維新の手柄を先にものにしそうな彼の存在を恐れた同志が、彼にしこたまの酒を飲ませてからの殺害を企てた。その計画にまんまとはまり、同志の凶刃に斃れることとなった(実行者は田中新兵衛・岡田以蔵と言われる)。そのため、彼の力量、評価にあたう成果を残さなかった。本間精一郎のなくなった場所には、本間精一郎殉難の地という石碑が建てられている。本間の死後に維新を成し遂げた新政府は従五位の官位を彼に贈っている(ほかに、長州の吉田松陰・久坂玄瑞など幕末に斃れた同志に対して新政府より官位が贈られている)。